愚痴。体育が嫌いだ。
ただ愚痴をこぼすだけなのだが、私は体育が嫌いだ。
別に運動が嫌いという訳では無い。中学生の時は卓球部で卓球をほぼ毎日していたし、体力を付けたいので毎日ランニングをしていた時もあった。それでも体育は嫌いだ。
何故ここまで体育が嫌いになってしまったのだろう。理由は2つある。
1つは、どうしても周りと比較されてしまい、その比較によって馬鹿にされる人が出てきてしまうからだ。
50m走でも走り幅跳びでも、何でもそうだが、とにかく点数を付けたがる。それは、体育という教科が運動技能によって点数を付け、それを元に成績を付けるものだからだ。
仕方ないことだとは思うのだが、点数によって(または成績によって)彼はあの子より運動が出来ない、ということが明確に分かってしまう。
もっと嫌なことは、運動神経が良い人が運動神経の悪い人に対して笑ったり貶したりするのを見てしまうことだ。人それぞれ、得意不得意があるのだから、サッカーでドリブルが上手く出来ないだとか、野球でバットを振ってもボールに当たらないだとか、そういったことは馬鹿にされるべきではないと思ってしまう。それなのに何故、人が馬鹿にされる所をわざわざ見なければならないのか。先生も「そんなこと言うな」などと怒ってはいるが、怒ったところで本人は悪気が無いので何の効果も発揮しない。結局、どうすることも出来ないのだ。
こういった所が嫌いだ。
体育が嫌いである理由2つ目は、誰も何も教えてくれないからだ。
私はどちらかというと運動は苦手な方で、つまり馬鹿にされてきた方に属する。馬鹿にされるのは嫌だったので、自主練習を積み、何とか馬鹿にされない程度になった。
自主練習をしている時に何度も思った。何故学校では教えてくれないのだろうか、何故誰も何も言ってくれないのだろうか、と。
例えば「走る」という動きについて話してみる。確かに大抵の人は走ることが出来るであろう。ただ走る速度、走るフォームに関しては人によって違う。綺麗なフォームで走る人もいれば不格好なフォームで走る人もいる。私は昔、かなり不格好なフォームで走っていたと両親は言う。それでこれがおかしい、あれがおかしい、とフォームを指摘してくれて、その甲斐あって変な走り方で走らなくなったのだ。
いや、これは学校で行うべきではないのか。
一人一人、個別に指導は出来ないとしても、ざっくりでも走り方を教えるべきではないのか。
何も教えないのなら、何のために体育の先生が存在するのだろうか。暴れ回りはしゃぐ生徒を、うるさいと怒鳴って静かにさせるためだけにいるというのか。そんなはずは無い。
以上の理由から、私は体育が嫌いだ。
出来れば体育の先生には、「先生」と言うのだからしっかりと色々教えて頂きたい。
「走る」「投げる」のような、初歩的なところから。
10の質問
はてなブログが10周年らしい。これに合わせて、はてなブログに10の質問が掲載されていたので、コピーアンドペーストして一つずつ答えていこうと思う。私は自身のことを自ら話すタイプではないので、このブログで私がどんな人間なのか知って頂けると嬉しい(?)。それでは早速一つ目の質問から。
・ブログ名もしくはハンドルネームの由来は?
「朝日」という名は本名からつけた。私は日本であまり見かけない苗字を名乗っている。同じ苗字の人は親と自分しか知らず、検索エンジンで苗字を検索しても名前占いしかヒットしない、それぐらい珍苗字なのだ。私と同じ苗字の有名人なんて、一人もいない(調べた範囲ではいない)。そんな苗字のせいで学校でもいじられており、たまに自分の苗字がもっとありきたりなものだったら楽に過ごせたのかな、などと考えることもあるが、別に自分の名前が嫌いという訳ではない。むしろ逆に自分の名前を愛していて、それ故にこの不思議な苗字を絶やしてはならないと思っている。そんな愛している名前から名付けたのが「朝日」だ。この「朝日」という名前も愛しているということは言うまでもないだろう。
しかし「朝日が昇る」というブログ名は実は適当につけたものだ。 元々、「朝日が沈む」という不思議な名前(苗字と同じぐらい不思議な名前)にしようかとも考えていたのだが、ブログ名で変に凝らなくても良いか、と思ってストレートに「朝日が昇る」という名前にした。適当に名付けたのだが、意外と気に入っている。
・はてなブログを始めたきっかけは?
これは私が初めて書いたブログに載っているので、是非そちらを見てもらいたい(露骨な宣伝)。
・自分で書いたお気に入りの1記事はある?あるならどんな記事?
まだ4つしかブログを書いていないが、その中でも自分が気に入っているのはこれだ。
将来の世界を想像して書いたブログで、これを書いている時が一番楽しかった。 数年前から頭の中で考えてはいたものの、人に話すのも恥ずかしいし、どうしようもなく頭の中で熟成していた話をブログに書き起こす作業は本当に楽しかった。
・ブログを書きたくなるのはどんなとき?
空いている時間に書きたくなる。空いている時間というのは、電車に乗っている時や勉強の休憩時間などのことだ。ブログを書くことが息抜きになっている。
(そういえば、私はいくつかの下書きを同時並行で書いていく人なので、その時の気分によって書くブログは違うのだが、他の方々はどうしているのだろう。ブログを書いている方、誰かコメントで教えてはくれないだろうか。)
ブログのネタを思いつくのは普段生活をしている時だ。ネタを思いつこうとしている時は逆に何も思いつかないので、逆に何もしていない時間、または他の作業をしている時間を大切にしている。ネタを思いついたら、とりあえず下書きにタイトルやざっくりとした内容を書き留めておく。これをその時の気分によって少しずつ書き進めていく感じだ。
・下書きに保存された記事は何記事? あるならどんなテーマの記事?
今保存されている記事は3つある。1つは将来の世界の続編、1つは自分の詠んだ短歌とその時の気持ちなどを綴ったもの。そして最後の1つはここでは発表せず、お楽しみということにしておきたい。同時並行で書いているとは言え、書くスピードはそこまで早くないので、気長に待って頂けるとありがたい。
・自分の記事を読み返すことはある?
かなり読み返す方だと思う。
まず、下書きを一通り完成させたあと、少なくとも3回は読み返す。書いている途中には気付かなかった誤字脱字や文のねじれに気付くことができるし、内容の順序や展開がおかしくなっていないかを確認することも出来るので、絶対に読み返す。
そもそも文章は人に読んでもらうために書いている。従って、人が読みにくいと感じる文章を書くことは良くないことだと思っている(もちろん否定的意見の人もいるとは思うしそれが普通だと思うが、あくまで私の意見は上記の通りである)。その信念に従って、私は何度も読み返している。既に投稿したものでも、もしかして誤字脱字があるのではないか、と怖くなって読み返してしまうことだってある。
・好きなはてなブロガーは?
実は、はてなブログ内ではあまり皆さんと交流がない。少ない交流の中でも私が好きなのは「藤野ゆくえ」さんだ。「うたよみん」での短歌活動や、漢字の一部をひらがなに変えて心の内面を表した「いちも詩」などで有名な方だ。そんな藤野さんのブログで一番面白かったのはこれ。
創作活動をしている方なら、なんとなくでも理解出来るのではないだろうか。
・はてなブログに一言メッセージを伝えるなら?
「手軽にブログを投稿できるシステムを作ってくれてありがとう」と言いたい。煩雑な設定はほとんどなく、本当に手軽に始めることが出来た。今後も愛用していく予定だ。
・10年前は何してた?
10年前というと私がまだ小学生だった頃のことだ。何をしていたのだろう。思い出せることがほとんど無い。レクリエーション大会も、運動会も、卒業式すら思い出すことが出来ない。こんな高校生になってはいけない気がする。
・この10年を一言でまとめると?
一言でまとめるなら「挑戦」。このブログを始めることも挑戦であるし、短歌創作を含めた創作活動も高校受験も友達作りも、様々な事が挑戦だった。これからの10年も、いや
10年と言わずこれからの人生も、挑戦することを怖がらない人間になりたいと思う。
以上、10の質問に答えてみた。いかがだっただろうか。他に質問がある方はコメントして頂けると、またどこかで答える機会があるかもしれないので是非コメントして頂きたい。流石に答えられない質問は無視するかもしれないが、その時はその時だ。
それでは今後も私のブログを楽しみに待って頂けると嬉しい。
人生・コンテンツ比率
皆さんはどのような趣味を持っているのだろうか。
趣味といえば、例えば映画鑑賞やアニメ鑑賞(鑑賞で合っているのだろうか)、音楽鑑賞、スポーツ観戦、釣り、食事、ゲーム、旅行など色々と挙げられるだろう。挙げだしたらきりが無いので列挙はこれくらいにしておくが、ここで皆さんには一度自分の趣味は何なのか、改めて考えていただきたい。
そして考えてもらった上で、以下の質問に答えていただきたい。その質問とは「その趣味は終わりが来るか」である。
多くの方が、終わりって何だよ、と思ったのではないだろうか。上に挙げた例で考えても、終わりのありそうな趣味は一つも無い。アニメや映画、ゲームなどは続々と制作されるし、釣りも地球上の魚が全滅するような事態にならない限りは終わらないだろう(そんなことになったら恐らく地球が終わる)。
しかし、趣味は終わらないと言うのに悲しいかな生命はいつか終わりを迎えてしまう。死にたくないと必死に願って神に祈っても、毎日病院に行ったとしても、どう頑張っても、120年もすれば(というか、そんなに生きることなく)人は死んでしまうのだ。これだけは避けられない。
こういうことを考える度に、私の頭にはある疑問が浮かんでくるそれは、やりたいことと使える時間のバランスがおかしくないか、という疑問だ。ここで言う「やりたいこと」は「趣味」、「使える時間」は「余暇」のことだと思って頂きたい。なので言い換えれば、「趣味と余暇のバランスがおかしくないか」ということである。皆さんも趣味に没頭している中で「死ぬまでにやりきれるかなぁ」と考えたことは無いだろうか。私の場合、月に2回程のペースで考えてしまうし、趣味をやりきるためには無駄な時間を削る必要があり、学校に行って勉強している場合じゃないな、と思うことも多々ある(別に勉強が嫌だから現実逃避をしようとしている訳では無い)。
ということで、今回はこの疑問について、しっかりと考えていきたいのだが、考えるために「人生・コンテンツ比率」という新しい概念を導入してみようと思う。以下、この概念を説明しながら実際に使ってみて、趣味と余暇のバランスがとれているのか確認してみようと思う。(以下、「人生・コンテンツ比率」を略して「比率」と表記する。ただスマホで文字を打つのが大変というだけである。)
〈「人生・コンテンツ比率」とは〉
早速だが例を出そうと思う。例えば趣味にかけることが出来る時間が残り100時間の人間が、やりたい趣味にかかる時間を計算した結果50時間は必要だと分かったとする。この時、ちょうど使える時間の二分の一で趣味をやりきることが出来るので、比率は0.5とする。逆に、200時間無ければ趣味をやりきることが出来ない、となったら比率は2だ。つまり計算式は以下のようになる。
《やりたい趣味にかかる時間》÷《趣味にかけられる人生の残り時間》=比率
ということで、《やりたい趣味にかけられる時間》と《趣味にかけられる人生の残り時間》を求めれば、比率を求めることが出来るというわけだ。では実際に私の場合で求めてみよう。
〈人生の残り時間〉
人生の残り時間を決めるためには、まず自分が何歳まで生きるかを決めなくてはならない。今回は日本人の平均寿命を元に、85歳まで生きると仮定する。そして私が今18歳であることから、私に残された時間は67年ということになる。こう考えると意外にたっぷりと時間がありそうだが、ここから趣味に使えない時間を差し引いていく必要がある。
まず、人間としての生活を行うためにも、睡眠は必須だ。寝ずにゲームをしたり漫画を読んだりアニメを見たりする人が周りにいるが、そういった人はすぐ体調を崩す。昨日なぜ休んだのか、と学校で尋ねると、夜中にアニメを見ていて眠れなかったなどと言う人がいるのである。体調を崩してしまうと思うように体が動かなくなり、それこそ時間の無駄になってしまうので、毎日6時間は寝ることにしようと思う。もう少し減らそうかとも考えたが、私はこれくらい寝なければ体が持たない。6時間寝るということはつまり、睡眠に人生の25%の時間を消費することが決定した。なんと、いきなりごっそり時間を削られることになってしまった。
それだけではない。食事や風呂、トイレの時間などももちろん必要である。これらを全て合わせても、一日に2時間は必要だろう。食事が数分で終わる人や、数分で風呂から上がるカラスの方々もいるとは思うが、あくまで私の場合である。さらに、趣味を楽しむためにはお金が必要だ。お金を稼ぐためには働く必要があり(楽して稼ぐ方法は取り入れないこととする)、従って労働時間を削ることは出来ない。ここで日本人の平均労働時間を調べたところ、ほぼ8時間であった(調べて思ったのだが労働基準法ギリギリなのではないだろうか)。その他にも色々と時間は削ることが出来そうだが、今回はこの辺りで一旦止めておく。現段階でもかなり削れてしまっているので、一度整理してくと以下の通りである。
- 私の残り時間は67年間である
- 毎日6時間は睡眠をとる
- 食事、風呂、トイレなどの時間は一日2時間とする
- 毎日8時間は労働をしていることとする(正確には週に一回のペースで休みがあるとは思うが、計算が面倒であるためこれを考慮しないこととする)
以上、これらをまとめて計算した結果、私が趣味にかけられる残り時間は約45年であった。これを多いととるべきか、少ないととるべきか今のところは分からない。この後考える、「やりたい趣味にかかる時間」を計算してみないと何も分からないのだ。ただ個人的には、もう少し時間があっても良いのにな、と感じた。時間を求めるのは人間の性なのかもしれない。
〈やりたい趣味にかかる時間〉
さて、遂に趣味にかかる時間を計算する段階に来た。これから私の趣味を片っ端から時間に変換していこうと思う。
まず、私はかなりのゲーマーである。3歳の頃にはコントローラーを握り、親と一緒になって遊んでいた記憶がある。当時はプレイヤースキルもそこまで無かったので、出来るゲームは限られていたが、今となってはスキルが上達し、やりたいゲームがたくさんあるのだ。改めて私がやってみたいゲームを脳内で数えたところ、少なくとも14作品が浮かび上がってきた。これだけでも多い気がするが、これだけを計算するのは残念ながら間違いである。理由は簡単、今後私が生活している間に遊びたいゲームが更に発売されるからだ。恐らく、一年に二本は遊びたいゲームが発売されると予想されるので、今後67年生きる私は更に134本の新作ゲームを遊びたくなってしまう計算だ。正直、今自分でアホなのかもしれないと思ってしまったが、これがゲーマーなのだ。今更どうしようもない。
結局、全て足し合わせて148本のゲームを遊ぶことになった。1つのゲームに最低でも500時間はかけるはずなので(ちょっと少なめに480時間かけるとして計算して)、ゲームにかける時間は2960日、年に換算しておよそ8年である。
8年もゲームをすることに自分でもビックリしているが、趣味はこれだけでは無い。私はアニメを見るのも大好きだ。今は勉強に疲れた時、休憩時間にたくさんのアニメを見ている。改めて録画しているアニメの本数を数えると30本だった。つまり、毎週30分の番組を30本見ていることになる。時間に換算して毎週37.5時間の視聴である。もっと勉強しろという読者からのツッコミが聞こえてきた気がするが、恐らく気のせいである。自分に不都合なことは私の耳には入らないシステムなのだ。
そんな話はどうでも良い。もちろんアニメを見ることを止めようとは思わない。つまり、毎週37.5時間はきっちりアニメに費やすことになる。1年52週間としても、67年で130650時間、年換算で約15年だ。まさかまさか、ゲームより時間をかけているとは思わなかった。これは痛手(?)である。
今ふと思ったのだが、趣味を一つ一つ説明しながら計算していると終わりが見えそうにない。真面目に文章を書くことが出来ない私は、毎回毎回脱線してしまうからである。改めて今までの文章を見返すと分かるが、途中で労働基準法やら耳のシステムの話が一行余分に入っている。このままではこのブログが終わりそうにない。仕方が無いので、計算結果のみを以下に載せることにする。
ざっと数えてこのようになった。特に、本(ライトノベル)に関しては読みたいものが多すぎて追いつきそうにない。読む速度が上がらない限り、本当に人生の終わりが先に来てしまうだろう。
ということで、必要なものは全て揃った。あとは計算するのみだ。
〈結果は!?〉
使える時間が45年、そして趣味にかかる時間が105年なので、105÷45を計算して結果は「2.33」だ。つまり、一度輪廻転生してもまだ時間が足りないということになる。なるほど、これは時間が足りるわけが無い。
しかも、この計算では今のようにブログを書く時間や短歌を考える時間、気に入った本やゲームなどを買いに行く時間などは含まれていないので、比率はさらに大きな値になるだろう。もしかすると友達と遊びに行くかもしれないし、彼女が出来てイチャつく時間も増えるかもしれない。こういった時間を考慮してしまうと更に比率は上がってしまう。
もしかすると、私は勉強している場合ではないのかもしれない。
将来の世界 1
数十年後の世界はどうなっているだろうか。
様々な科学技術が発達して今よりも住みやすい世界になっているだろうか。争いのない平和な世界になっているだろうか。
今回は私なりに考えた将来の世界について書いてみようと思う。あくまで予想なので、小説を読むようなイメージで読んで頂けるとありがたい。
《遺伝子操作》
遺伝子操作の技術は格段に進歩しており、人類の生活にも利益を生み出している。
例えば遺伝子操作により、先天的な病気などは全て取り除くことが出来ている。手や足などが無いままに生まれてしまうといった悲しい事態は起こらなくなった。
また、この技術は人間以外の動物や植物にも応用されていて、殻・皮・種などを無くして子供や高齢者でも食べやすい果物が出来たり、ダイエット用食品として低カロリーな穀物が出来たり、逆に少量食べるだけでも餓死を免れることが出来るような高カロリーな穀物も生まれた。趣味や娯楽の方に目を向けると、昔よりも色や形の異なった美しい草花が登場し、観葉植物や結婚式場などに置かれる花がバラエティ豊かになった。さらにはペットとして可愛さを重視した新しい動物種が生み出された。ラクダのように水を数日間飲まなくても生きることが出来るペットも生まれ、これは水をあげるのを忘れがちなズボラな人に好評である。こういった具合に、遺伝子操作の技術は人間にとって無くてはならないものになっている。
もう少し先の将来では、人間の先天的な病気を取り除くだけでなく、外見を大きく変えるような遺伝子操作も行われている。つまり、大人になった時に「イケメン」や「美人」になるように操作してから産まれるということだ。
倫理的に問題ではないかという意見が出たことで、これを皮切りに様々な議論が交わされ、世界が遺伝子操作賛成派と反対派に分かれ揉めに揉めた時期もあった。「顔が良くないという理由だけで虐められる子供がいる、そういった子供が減るなら遺伝子操作には賛成だ」という賛成意見や、「人に危害を加えるような人間に育つ訳でもないのだから、好きにすれば良いのではないか」という中立(と言うよりは興味が無いと言った方がいいかもしれない)意見、そして「人の顔はそうなるべくして形成されるものであり、人間が勝手に手を出していいものではないはずだ」という反対意見も出た。しかし結局のところ、我が子がイケメン、もしくは美人であってほしいと願う親の気持ちを誰もが持っていたのである。気が付くと世界の人間全員が賛成派に回っていた。この他にもいくつか騒動はあったものの(例えば貧しい地域の人々がこの治療を受けられなかった時期があり、「顔が良くない人間は貧しい」という差別が起きてしまった)、馴染むのに時間はそれほどかからなかった。
こうして世界にはイケメンと美人が溢れかえることとなる。
これをきっかけに、人間の恋愛観が一変することになるのだが、それはまた今度書くことにする。
程度の大きい単語
若者言葉は理解しにくいという話をよく聞く。私を含め若者は普段から使っているので何の違和感もないが、少し歳が離れると分からなくなってしまうのだろう。
そこで、今回は若者の使う単語を少し解説してみようと思う。闇雲に解説するのも面白くないので、程度の大きいことに対して使う単語を二つ扱ってみたい。
・「やばい」
まず初めに思いつくのはこの単語だ。程度が大きいことであれば基本的にどんな時にでも使う。
例えば可愛い犬を見つけた時には「やばい、可愛い」と言うし、頭がはち切れそうなほど痛い時には「頭痛い、やばい」と言う。これらはそれぞれ「とても可愛い」「とても頭が痛い」と同じ意味である。
この二つの例から分かる通り、程度が大きければ使える。プラスイメージ(可愛い)にもマイナスイメージ(頭が痛い)にも使える。
ただし、この単語は「ピンチ」を意味する時にも用いられることがある。とある有名な芸人が「やばいよやばいよ」と言うのは有名だが、これは危機的状況であることを指している(危機的状況の程度は大きいので、単語の根幹は変わっていないのかもしれない)。
ただ、この言葉は結局は文脈判断しなければならない(全ての言葉は文脈判断しなければならないとは思うが)、ということを紹介しておきたい。例えば、明日提出しなければならない課題が全く終わっていない時、「やばい、終わらない」と言うことがある。これは二つの考え方がある。一つは「課題の量が多すぎる、終わらない」と捉える方法、そしてもう一つは「終わらさないと怒られてしまう、でも終わらない、ピンチだ」と捉える方法だ。どんな単語でもそうだが、自分の思った通りの解釈をしてくれない可能性がある。とくに「やばい」のようなふわふわとした単語はより一層この傾向が強いだろう。
・「鬼」
若者言葉を知らない人からすれば、急に妖怪の話を始めるのかと困惑しているかもしれない。本来は全身赤色だったり青色だったりして、金棒を持ってとても強そうな妖怪を指す言葉だが、これも程度が大きいことを表す言葉になっている。
例えば解法が思いつかない問題に直面した時、「鬼難しい」という時がある。これは「とても難しい」と同じ意味だ。先程の「やばい」は形容詞だったのに対して、「鬼」は副詞的に使う。
(下書きを読み返して思いついたことをここに記しておきたい。この「鬼」という単語は「この問題、鬼じゃん」のように使うこともある。これも「この問題は難しい」と同じ意味である。必ずしも副詞的に使うという訳では無さそうだ。)
ちなみに、「やばい」と「鬼」を合わせて使い、「鬼やばい」という表現も無い訳では無い。こうなってくると、重ねれば重ねるほど程度が強くなって指数関数のようになっていきそうだが、「鬼やばやば鬼鬼やばい」のような表現に出会ったことは無い(もしかすると私が出会ったことが無いだけなのかもしれない)。
いかがだっただろうか。若者言葉を全く使わない人からすれば、本当に使われているのか疑っている人もいるかもしれないが、今日の若者の会話に限らず、ライトノベルやゲーム、アニメなどにも使われている単語である(これでも疑っている人がいるかもしれないので一例を挙げると、某太鼓をドンドコ叩くリズムゲームでは、「むずかしい」よりも難易度の高いものは「おに」という名称が付けられている)。ブログなどに小説を投稿している方の作品を見ていると、出てくる青年が妙に若者になりきれていない日本語を使っている時があり、言葉は変わっていくものなのだなぁとしみじみしつつも、少し読みにくく感じたり訂正を入れたいと思ってしまったりする(これはあくまで一若者の意見として捉えて頂きたい)。
文章を書く人にとって少しでもこれが役に立つことを願っている。
挨拶 ブログ始めました
どうも、朝日です。いきなりですが、この度ブログを始めることにしました。今回はその挨拶と、何故ブログを始めたのかについて書いていこうと思います。
理由は二つほどあります。
一つは「皆さんに感化されたから」です。
私が「朝日」という名でうたよみん(短歌を詠みあうサイト、アプリの名称)に短歌を投稿し始めて数ヶ月が経った頃、もっと他にも創作活動を行っている方と近づきたいと思いTwitterアカウントを開設しました。有難いことに皆さんからフォローして頂いて、うたよみんで名前を知っている方から、うたよみんでは出会うことがなかったが美しい短歌を詠む方、さらには音楽活動をされている方まで、様々な方とTwitterで出会うことができ、とても嬉しく楽しい毎日です(皆さんいつもありがとうございます)。
そんな中、ブログを書いている方を数名見かけました。それを見て、(我ながら子供っぽい動機だと思いますが)自分もブログを書きたいと思いました。文才があるとは全く思っていませんし、お金を稼ごうとも思っていませんが、やってみたいことなので挑戦してみたいと思います。
そしてもう一つの理由は「過去に諦めた経験があるから」です。
私が高校一年生だった時の出来事です。クラスメイトの顔と名前を必死に覚えていた頃、LINE・Twitter・Instagramのアカウントを教え合うというイベントが発生しました。LINEは連絡先交換の目的で、TwitterとInstagramはまだ何も知らないクラスメイトと仲良くなる目的で、アカウントを教え合っていたのだと思います。
私はLINEの交換は目的を理解出来たので迷わず教えたのですが、Twitterは教える必要は無いのではないかと思っていました(Instagramはその時は始めていませんでした)。しかし、クラスメイトと仲良くなりたい、また周りと違う行動をして浮きたくなかった私は、周りに合わせてアカウントを教えてしまいました。
最初の方は特に不自由は無かったので、自由にアカウントを使っていたのですが、ある時思い立ってブログを投稿した際、冷やかしのような意味不明なコメントが書き込まれてしまったのです。犯人は分かっていませんが、恐らくクラスメイトで間違いないでしょう(クラスメイト以外にもフォロワーはいましたが、交流はほぼありませんでした)。
結局、何回かブログを投稿し、その都度変なコメントを付けられるので挫折してしまいました。今思えば、コメント欄を閉鎖するなどの手もあったなと思うのですが、昔の私はそれに気づきませんでした。
(ちなみに一つ目の理由で、さも初めてブログを書き始めるかのように綴りましたが、二つ目の理由にあるように一度挑戦はしているので、嘘といえば嘘です。)
以上がブログを始める理由です。高校三年生なので投稿はかなり少ないと思いますが、時間がある時にでも読んで頂いて、感想などコメント頂ければ嬉しいです。
それでは、これからよろしくお願いします。