朝日は昇る

普通の高校三年生。勉強に疲れたりストレスが溜まったりすると文章を書きたくなる。

愚痴。体育が嫌いだ。

ただ愚痴をこぼすだけなのだが、私は体育が嫌いだ。

別に運動が嫌いという訳では無い。中学生の時は卓球部で卓球をほぼ毎日していたし、体力を付けたいので毎日ランニングをしていた時もあった。それでも体育は嫌いだ。

 

何故ここまで体育が嫌いになってしまったのだろう。理由は2つある。

 

1つは、どうしても周りと比較されてしまい、その比較によって馬鹿にされる人が出てきてしまうからだ。

50m走でも走り幅跳びでも、何でもそうだが、とにかく点数を付けたがる。それは、体育という教科が運動技能によって点数を付け、それを元に成績を付けるものだからだ。

仕方ないことだとは思うのだが、点数によって(または成績によって)彼はあの子より運動が出来ない、ということが明確に分かってしまう。

もっと嫌なことは、運動神経が良い人が運動神経の悪い人に対して笑ったり貶したりするのを見てしまうことだ。人それぞれ、得意不得意があるのだから、サッカーでドリブルが上手く出来ないだとか、野球でバットを振ってもボールに当たらないだとか、そういったことは馬鹿にされるべきではないと思ってしまう。それなのに何故、人が馬鹿にされる所をわざわざ見なければならないのか。先生も「そんなこと言うな」などと怒ってはいるが、怒ったところで本人は悪気が無いので何の効果も発揮しない。結局、どうすることも出来ないのだ。

こういった所が嫌いだ。

 

 

体育が嫌いである理由2つ目は、誰も何も教えてくれないからだ。

私はどちらかというと運動は苦手な方で、つまり馬鹿にされてきた方に属する。馬鹿にされるのは嫌だったので、自主練習を積み、何とか馬鹿にされない程度になった。

自主練習をしている時に何度も思った。何故学校では教えてくれないのだろうか、何故誰も何も言ってくれないのだろうか、と。

例えば「走る」という動きについて話してみる。確かに大抵の人は走ることが出来るであろう。ただ走る速度、走るフォームに関しては人によって違う。綺麗なフォームで走る人もいれば不格好なフォームで走る人もいる。私は昔、かなり不格好なフォームで走っていたと両親は言う。それでこれがおかしい、あれがおかしい、とフォームを指摘してくれて、その甲斐あって変な走り方で走らなくなったのだ。

 

いや、これは学校で行うべきではないのか。

 

一人一人、個別に指導は出来ないとしても、ざっくりでも走り方を教えるべきではないのか。

何も教えないのなら、何のために体育の先生が存在するのだろうか。暴れ回りはしゃぐ生徒を、うるさいと怒鳴って静かにさせるためだけにいるというのか。そんなはずは無い。

 

以上の理由から、私は体育が嫌いだ。

出来れば体育の先生には、「先生」と言うのだからしっかりと色々教えて頂きたい。

 

「走る」「投げる」のような、初歩的なところから。