朝日は昇る

普通の高校三年生。勉強に疲れたりストレスが溜まったりすると文章を書きたくなる。

人生・コンテンツ比率

皆さんはどのような趣味を持っているのだろうか。

趣味といえば、例えば映画鑑賞やアニメ鑑賞(鑑賞で合っているのだろうか)、音楽鑑賞、スポーツ観戦、釣り、食事、ゲーム、旅行など色々と挙げられるだろう。挙げだしたらきりが無いので列挙はこれくらいにしておくが、ここで皆さんには一度自分の趣味は何なのか、改めて考えていただきたい。

 

そして考えてもらった上で、以下の質問に答えていただきたい。その質問とは「その趣味は終わりが来るか」である。

 

多くの方が、終わりって何だよ、と思ったのではないだろうか。上に挙げた例で考えても、終わりのありそうな趣味は一つも無い。アニメや映画、ゲームなどは続々と制作されるし、釣りも地球上の魚が全滅するような事態にならない限りは終わらないだろう(そんなことになったら恐らく地球が終わる)。

しかし、趣味は終わらないと言うのに悲しいかな生命はいつか終わりを迎えてしまう。死にたくないと必死に願って神に祈っても、毎日病院に行ったとしても、どう頑張っても、120年もすれば(というか、そんなに生きることなく)人は死んでしまうのだ。これだけは避けられない。

 

こういうことを考える度に、私の頭にはある疑問が浮かんでくるそれは、やりたいことと使える時間のバランスがおかしくないか、という疑問だ。ここで言う「やりたいこと」は「趣味」、「使える時間」は「余暇」のことだと思って頂きたい。なので言い換えれば、「趣味と余暇のバランスがおかしくないか」ということである。皆さんも趣味に没頭している中で「死ぬまでにやりきれるかなぁ」と考えたことは無いだろうか。私の場合、月に2回程のペースで考えてしまうし、趣味をやりきるためには無駄な時間を削る必要があり、学校に行って勉強している場合じゃないな、と思うことも多々ある(別に勉強が嫌だから現実逃避をしようとしている訳では無い)。

ということで、今回はこの疑問について、しっかりと考えていきたいのだが、考えるために「人生・コンテンツ比率」という新しい概念を導入してみようと思う。以下、この概念を説明しながら実際に使ってみて、趣味と余暇のバランスがとれているのか確認してみようと思う。(以下、「人生・コンテンツ比率」を略して「比率」と表記する。ただスマホで文字を打つのが大変というだけである。)

 

 

〈「人生・コンテンツ比率」とは〉

早速だが例を出そうと思う。例えば趣味にかけることが出来る時間が残り100時間の人間が、やりたい趣味にかかる時間を計算した結果50時間は必要だと分かったとする。この時、ちょうど使える時間の二分の一で趣味をやりきることが出来るので、比率は0.5とする。逆に、200時間無ければ趣味をやりきることが出来ない、となったら比率は2だ。つまり計算式は以下のようになる。

 

《やりたい趣味にかかる時間》÷《趣味にかけられる人生の残り時間》=比率

 

ということで、《やりたい趣味にかけられる時間》と《趣味にかけられる人生の残り時間》を求めれば、比率を求めることが出来るというわけだ。では実際に私の場合で求めてみよう。

 

〈人生の残り時間〉

人生の残り時間を決めるためには、まず自分が何歳まで生きるかを決めなくてはならない。今回は日本人の平均寿命を元に、85歳まで生きると仮定する。そして私が今18歳であることから、私に残された時間は67年ということになる。こう考えると意外にたっぷりと時間がありそうだが、ここから趣味に使えない時間を差し引いていく必要がある。

 

まず、人間としての生活を行うためにも、睡眠は必須だ。寝ずにゲームをしたり漫画を読んだりアニメを見たりする人が周りにいるが、そういった人はすぐ体調を崩す。昨日なぜ休んだのか、と学校で尋ねると、夜中にアニメを見ていて眠れなかったなどと言う人がいるのである。体調を崩してしまうと思うように体が動かなくなり、それこそ時間の無駄になってしまうので、毎日6時間は寝ることにしようと思う。もう少し減らそうかとも考えたが、私はこれくらい寝なければ体が持たない。6時間寝るということはつまり、睡眠に人生の25%の時間を消費することが決定した。なんと、いきなりごっそり時間を削られることになってしまった。

それだけではない。食事や風呂、トイレの時間などももちろん必要である。これらを全て合わせても、一日に2時間は必要だろう。食事が数分で終わる人や、数分で風呂から上がるカラスの方々もいるとは思うが、あくまで私の場合である。さらに、趣味を楽しむためにはお金が必要だ。お金を稼ぐためには働く必要があり(楽して稼ぐ方法は取り入れないこととする)、従って労働時間を削ることは出来ない。ここで日本人の平均労働時間を調べたところ、ほぼ8時間であった(調べて思ったのだが労働基準法ギリギリなのではないだろうか)。その他にも色々と時間は削ることが出来そうだが、今回はこの辺りで一旦止めておく。現段階でもかなり削れてしまっているので、一度整理してくと以下の通りである。

 

  • 私の残り時間は67年間である
  • 毎日6時間は睡眠をとる
  • 食事、風呂、トイレなどの時間は一日2時間とする
  • 毎日8時間は労働をしていることとする(正確には週に一回のペースで休みがあるとは思うが、計算が面倒であるためこれを考慮しないこととする)

 

以上、これらをまとめて計算した結果、私が趣味にかけられる残り時間は約45年であった。これを多いととるべきか、少ないととるべきか今のところは分からない。この後考える、「やりたい趣味にかかる時間」を計算してみないと何も分からないのだ。ただ個人的には、もう少し時間があっても良いのにな、と感じた。時間を求めるのは人間の性なのかもしれない。

 

〈やりたい趣味にかかる時間〉

さて、遂に趣味にかかる時間を計算する段階に来た。これから私の趣味を片っ端から時間に変換していこうと思う。

 

まず、私はかなりのゲーマーである。3歳の頃にはコントローラーを握り、親と一緒になって遊んでいた記憶がある。当時はプレイヤースキルもそこまで無かったので、出来るゲームは限られていたが、今となってはスキルが上達し、やりたいゲームがたくさんあるのだ。改めて私がやってみたいゲームを脳内で数えたところ、少なくとも14作品が浮かび上がってきた。これだけでも多い気がするが、これだけを計算するのは残念ながら間違いである。理由は簡単、今後私が生活している間に遊びたいゲームが更に発売されるからだ。恐らく、一年に二本は遊びたいゲームが発売されると予想されるので、今後67年生きる私は更に134本の新作ゲームを遊びたくなってしまう計算だ。正直、今自分でアホなのかもしれないと思ってしまったが、これがゲーマーなのだ。今更どうしようもない。

結局、全て足し合わせて148本のゲームを遊ぶことになった。1つのゲームに最低でも500時間はかけるはずなので(ちょっと少なめに480時間かけるとして計算して)、ゲームにかける時間は2960日、年に換算しておよそ8年である。

8年もゲームをすることに自分でもビックリしているが、趣味はこれだけでは無い。私はアニメを見るのも大好きだ。今は勉強に疲れた時、休憩時間にたくさんのアニメを見ている。改めて録画しているアニメの本数を数えると30本だった。つまり、毎週30分の番組を30本見ていることになる。時間に換算して毎週37.5時間の視聴である。もっと勉強しろという読者からのツッコミが聞こえてきた気がするが、恐らく気のせいである。自分に不都合なことは私の耳には入らないシステムなのだ。

そんな話はどうでも良い。もちろんアニメを見ることを止めようとは思わない。つまり、毎週37.5時間はきっちりアニメに費やすことになる。1年52週間としても、67年で130650時間、年換算で約15年だ。まさかまさか、ゲームより時間をかけているとは思わなかった。これは痛手(?)である。

 

今ふと思ったのだが、趣味を一つ一つ説明しながら計算していると終わりが見えそうにない。真面目に文章を書くことが出来ない私は、毎回毎回脱線してしまうからである。改めて今までの文章を見返すと分かるが、途中で労働基準法やら耳のシステムの話が一行余分に入っている。このままではこのブログが終わりそうにない。仕方が無いので、計算結果のみを以下に載せることにする。

 

  • ゲームに8年を費やす
  • アニメに15年を費やす
  • 本(ライトノベル)に55年を費やす
  • 漫画に15年を費やす
  • YouTubeの視聴に6年を費やす
  • Twitterの閲覧に6年を費やす

 

ざっと数えてこのようになった。特に、本(ライトノベル)に関しては読みたいものが多すぎて追いつきそうにない。読む速度が上がらない限り、本当に人生の終わりが先に来てしまうだろう。

ということで、必要なものは全て揃った。あとは計算するのみだ。

 

〈結果は!?〉

使える時間が45年、そして趣味にかかる時間が105年なので、105÷45を計算して結果は「2.33」だ。つまり、一度輪廻転生してもまだ時間が足りないということになる。なるほど、これは時間が足りるわけが無い。

しかも、この計算では今のようにブログを書く時間や短歌を考える時間、気に入った本やゲームなどを買いに行く時間などは含まれていないので、比率はさらに大きな値になるだろう。もしかすると友達と遊びに行くかもしれないし、彼女が出来てイチャつく時間も増えるかもしれない。こういった時間を考慮してしまうと更に比率は上がってしまう。

 

 

もしかすると、私は勉強している場合ではないのかもしれない。